年表
1953(昭和28年)4月 京都市下京区にて生まれる
1966(昭和41年)3月23日 京都市立七条第三小学校卒業
1969(昭和44年)3月19日 立命館中学校卒業
1972(昭和47年)3月4日 立命館高等学校卒業
1972(昭和47年)4月 京都予備校生
1977(昭和52年)3月14日 佛教大学社会学部卒業
1977(昭和52年)4月1日 京都信用金庫入社 三条支店配属。融資係、営業主任を経験
1984(昭和59年)1月 同上、新店舗開設委員を経験
1984(昭和59年)3月 同上、西洞院支店開店により配属 支店長代理を経験
1986(昭和61年) 友人とキモノクリニッックの会社、(株)京都水昌堂を設立
1987(昭和62年)3月31日 京都信用金庫を退職
1988(昭和63年)3月 (株)京都水昌堂 取締役
1991(平成3年)10月3日 染色補正技能士の資格を取得
1995(平成7年)1月17日 阪神・淡路大震災発生 政治を考えるようになる
1996(平成8年)2月1日 別会社にて染色補正指導員として関東地区のキモノクリニックのシステム化に参画
1997(平成9年)3月 (株)京都水昌堂 取締役退任 選挙に向けて分析と駅前報告の準備を始める
1997(平成9年)7月29日 樟葉駅前で初めての駅前報告
1999(平成11年)4月25日 枚方市議会議員選挙初当選 2379票 (完全1人選挙にて議員36名中、下から3番目で当選)
2003(平成15年)4月27日 枚方市議会議員選挙2期目当選 3519票 (完全1人選挙にて伸び率トップ当選!同じ地区でライバルであり同僚の池上のりこ議員を僅か6票上回る!!あーー神様の差配に感謝します!)
2005(平成17年)5月 文教常任委員長
2006(平成18年)5月 議会運営委員会副委員長
2007(平成19年)4月22日 枚方市議会議員選挙3期目当選 3362票 (議員定数34名の中、3期連続当選で完全1人選挙実証実験終了・19人落選の激烈な選挙で票は前回を割り込む)
2007(平成19年)5月29日 大林組による枚方談合事件発生 検察特捜による市役所家宅捜査 以後、独自に事件に関しての調査活動を続ける
2009(平成21年)5月 厚生常任委員長及び消防監査
2010(平成22年)5月 枚方市議会選出監査委員
2010(平成22年)9月10日 議会会派「みんなの党市民会議」結成 (改革市民会議は解散・メンバーは同じ))
2010(平成22年)11月17日 みんなの党大阪府枚方市議会広域支部 幹事長
2011(平成23年)4月24日 枚方市議会議員選挙4期目当選 4845票 (完全1人選挙実行で4期連続当選・12人落選の激烈な選挙の中、2番目で当選)
2011(平成23年)5月1日 「みんなグループ」(総勢7名)として、議会会派「みんなの党市民会議」(池上のりこ・私・鍜治谷知宏の各氏3名)及び「未来に責任・みんなの会」(岡沢龍一・岩本優祐・木村亮太・清水薫の各氏4名)の2会派が結成
2013(平成25年)5月 議会改革調査特別委員会委員長 H26年4月枚方市議会基本条例施行
2014(平成25年)4月26日 みんなの党大阪総支部副総支部長に就任 総支部長には江口克彦参議院議員
2014(平成26年)5月16日 第66代枚方市議会副議長
2014(平成26年)11月28日 みんなの党解党 以前の無所属市民派に戻る
2014(平成26年11月29日 会派名を「みんなの党市民会議」から以前の「改革市民会議」に変更
2015(平成27年)4月26日 枚方市議会議員選挙5期目惨敗 1671票 (定数32名、完全一人選挙を敢行するも前回2位当選の4845票から3174票を失う枚方議員選挙史上歴史的敗北となる)
2015(平成27年)4月30日 議員任期と副議長公務を終える
2015(平成27年)5月6日 役所での整理を終え五行(お詫び、整理、掃除、運動、読書)に入る
誕生〜現在までのエピソード
小さい頃1953〜1960
京都の下京区で生まれたが、近所にはまだ空き地も原っぱもあった。 冬の暖房は練炭火鉢が主で石油ストーブはまだ我が家にはない。冬の夜空にはオリオン座がよくみえた。
主な遊びは、メンコ、ビー玉、コウ、スイ、タイという鬼ごっこの一種。 夏の冷房は扇風機のみ。その扇風機もまだまだ高級品だった。 ドブにはミミズがいっぱい、チョウチョも街中を飛んでいるのが普通の風景だった。バナナ、すいか、カステラ、ケーキは高級品でめったに食べられなかった。
近所でテレビを持っている所はまだなかった。
クリスマスにはツリーを飾った。 赤や緑の銀紙で出来た三角帽子をかぶり、クラッカーを破裂させたり、やけに楽しげだった。銀紙の長靴に入っている不二家のお菓子をもらうのが大きな楽しみだった。
月光仮面の私(昭和34年頃)
小学生の頃1960〜1966
父は京都の日蓮宗の寺(島原の慈雲寺)に生まれたが、ボウズにならず音楽が好きで演奏の仕事を始めた。
父の仕事は結構ハードで日曜日も、盆、正月も休みなしであまり遊んでもらった記憶がない。高学年になって、夏に家族で日本海(柴山)へ海水浴に行ったことと、年末に私だけ映画に連れて行ってくれた事が記憶にある。
母の実家は愛知県美和町にあり、夏休みには一週間ほど母と共に里帰りしていた。母は七人兄弟の長女で名古屋に帰るとネエサマ、ネエサマと大変な扱いで、私や双子の妹も名古屋では若殿、若姫の扱いで大事にしてもらった。
高学年のとき知能テストがあり、成績が大変良いと母が担任から聞かされ、私に少なからず期待したようだが、今から見ると知能テストの結果は人生の結果とあまり関係がないようだ。小学校では一クラス46名で一学年三クラスあった。何度か学級委員もしたが高学年になるにしたがって成績は低下してきた。やはり勉強は努力が大きい。
5年生の頃、京都のボーイスカウト第四五団(西本願寺系)に入隊した。当時、物資があまりなくボーイスカウトの制服も人のお下がりをいただいて母が直した物を着ていたように思う。この時のボーイスカウトの経験が今のアウトドアやウェスタン趣味につながっているように思う。
私は要らない事を心配するクセがあるようで、時々、今、父が死ぬと生活困るなあと子供心に心配し、フトンに入ってもなかなか寝付かれず、夜遅く父が帰って来る足音と玄関の戸が開く音を聞いて、今日も無事だったかと安心してようやく寝付いたのを覚えている。
アメリカのテレビドラマはよく見た。 アメリカは豊かさの象徴でデッカイ車、デッカイ冷蔵庫、デッカイ牛乳ビンが印象に残っている。アメリカはコジキ(当時の表現)でも車を持っていると思いこんでいた。
よく見たアメリカ製テレビ番組にはローハイド、ララミー牧場、ボナンザ、バットマスターソン、アニーよ銃を取れ、拳銃無宿、ライフルマン、ガンスモーク、テキサスレンジャー、ローンレンジャー、ハイウェイパトロール、マイアミバイス、マイクハマー、モーガン警部、バークにまかせろ、ペリーメイスン、鬼警部アイアンサイド、マックロード警部、スパイ大作戦、名犬ラッシー、名犬リンチンチン(名犬リンティー)、チビッコギャング、さんばか大将、うちのママは世界一、パパ大好き、ルーシーショー、奥様は魔女、かわいい魔女ジニー、ヒッチコック劇場、アンタッチャブル、アウターリミッツ、ベンケーシー、ドクターキルデア、ブラボー火星人、ミスターエド、逃亡者、コンバット、ギャラントメン、ラットパトロール、特攻野郎Aチーム、原潜シービュー号、サーフサイド6、サンセット77、ハワイアンアイ、0011ナポレオンソロ、グリーンホーネット、宇宙家族ロビンソン、FBI、タイムトンネル、イギリス物ではプリズナーナンバー6、そしてサンダーバードなどなど。
これを見ると私は心の底から「良きアメリカ」に敵対できるわけがないことがわかる。
中学生時代1966〜1969
母は教育熱心で家庭教師の山田先生にも大変世話になりました。私は私学の立命館中学(当時男子校)を受験した。初めのころ、私は近所の友達や小学校の友達の多くが地元の公立中学(七条中学)に入学したので、さみしく、不満を持ったが立命館の雰囲気にすぐになれた。
大阪にいるヨシヒロちゃんという年上の親戚が同志社を卒業していたので同志社も受験したが不合格だった。同志社の受験番号は256番で、私の前の席、255番が黒いビロードの服を着たチャーミングな女の子だった。この子と一緒に勉強するんやったらええなあ、なんて思っていたので落ちた時は少なからずショックを受けた。255番は合格していた。前後10人ほどの番号はなかった。
立命館でのクラブ活動は社会部で、学外ではクラブの先輩との関係で鉄道友の会にも入った。社会部では国鉄の鷹取工場を見学して電気機関車を運転したり(本当に構内を走った)、姫路城へ行ったり、シネラマの「2001年宇宙の旅」を大阪のOS劇場でみたり、又、スシ屋に行ったりと結構学外活動が多く楽しかった。
今から思い返すと、社会部顧問の北野先生には食べ盛りの部員を梅田のスシ屋へ連れて行っていただいたり、大変お世話になっていました。あらためて御礼申し上げます。思えば心霊研究のキッカケも北野先生であった。先生!あの世で見てくれてる?
高校生時代1969〜1972
ちょうど学生運動が盛んで、私もエスカレーターでこのまま立命館大学に行くことに疑問を持つようになった。当時の大学紛争を見ていて、いろいろなことをゆっくり考えてみたかった。
私は当時から現実主義的な所があり、赤ヘルや黒ヘルの思いが、いわゆる左翼イデオロギーでこの国が変るとは頭から信じていなかった。しかし何かヌエ的な政治状況に対して行動したい衝動に駆られベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)のデモに参加した。
べ平連は、ベトナムに平和を!(平和主義)アメリカはベトナムから出て行け!(民族自決、又は反米)日本政府はベトナム戦争に加担するな!(戦争反対)の三つに合意すれば右も左もイデオロギーに関係なく運動に参画できる画期的な反戦市民運動であった。組織の形態を持たない為、自称「一人べ平連」も多く存在した。後の私の一人選挙(個人原理)の原点でもあった。
しかし、正直に言えば私はベトナムの人のことはあまり興味がなかった。なんと言っても私はアメリカ製テレビドラマ(上記)で育ったのだから。デモのとき車道を歩くことや市民原理・市民運動という言葉が私にとって新鮮だった。
ベ平連で反戦市民運動に参加しても、ベトナム戦争では個々の戦闘に興味を持った。高価なF105やF4戦闘爆撃機がAK47自動小銃で撃ち落されたり、ジェット機の時代にプロペラ機のスカイレーダー機が活躍したり、戦場では意外な展開がありマクナマラ(エリート)のアメリカ流現代戦略論が破綻しかかっていた。
べ平連運動で気になる事もあった。多くの運動参加者に単純な社会主義パラダイス(社会主義バンザイ)=反帝(帝国主義に反対)=反米(米国は帝国主義の総本山)意識があり、アメリカという近代民主主義国家に対する認識が一面的であったことだった。当時の風潮とはいえ、正確な「民主主義国家としてのアメリカ合衆国」に対する認識がないと日本経済の高度成長と共に経済的豊かさを獲得するにつれ、いずれ運動の持続力を持ち得ないと感じた。
高校でのクラブ活動は、中学からの先輩から部員が不足しているから来いという誘いを断りきれず演劇部へ、何を間違ったか野球のイロハだけでもと軟式野球部にも、そして強くなりたいと光明寺西山流空手道にも入門、エドガーケイシーやスウェデンボルグに興味を持ち日本心霊科学協会に入会し心霊研究へ、軍事ジャーナリストの小山内宏さんに影響を受け軍事研究と、学校の勉強はほとんどしなかった(出来なかった)。
特に心霊問題では高二の時、私の作文の内容(死について)や、学友の「高橋がヘン」というウワサで担任の上田先生がひょっとして自殺するのではと心から心配していただきいろいろ面倒をおかけした。上田先生には心からお詫びいたします。ご心配をおかけし誠にすみませんでした。死ぬ気など耳くそほどもありませんでしたのに。ただ軟式野球部で一緒だったT君は後年、本当に自殺した。
先輩の顔を立てて入った演劇部だったが三年間続いた。他校の女生徒と接する機会も多く、それなりにマメに活動していたが3年生の時に演劇自体は上達せぬままに京都高等学校演劇協会の会長になって協会運営に走りまわることになった。
当時、京都の20数校の高校が加盟しており大変な思いをしたが、他の役員が魅力的な女性ぞろいで非常に楽しくやりがいがあった。
高校生活はこの様な状態なので肝心の学業不振、英語の足切り(40点以下?よく覚えていない)にあって、そのまま大学には行こうにも行けなくなってしまった。(親不孝しました。陳謝多謝)
心霊問題は今でもライフワークの一つで、当時、私が属していた日本心霊科学協会は東京湯島天神に本部があった。どうしても一度、湯島の本部に行ってみたかったので、早稲田大学の政経学部を受験するという名目で初めて東京へ行った。
当時、超高層ビルは霞ヶ関ビル(36階やったかな)と新宿の京王プラザホテルぐらいでそれも見たかった。最初の2泊は新宿の旅館に泊まった。受験の為に全国から言葉(東北の受験生の言葉がわからなかった)も表情も違う同年代達がいて感激した。旅館のおかみさんも美人だった。
しかし私は旅館で勉強することもなく「東京めぐり」をしていた。
親は私を信頼しており、それをいいことにダマしていたわけで今は心から反省している(再度、陳謝多謝)。
3日目から、恵比寿という所におられた父の恩師(バイオリンの林二郎氏)の所でお世話になった。ちょうど受験の最中に浅間山荘事件があり、機動隊の突入の様子をテレビが連続放送しており、ご家族全員と共にテレビを延々と見続けることになった。そんなかんなで結局浪人となった(もういっちょ陳謝多謝)・・・。
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予備校時代1972〜1973
一応、岡崎の京都予備校には行ったが形だけで、親のことを思うとバチが当たる(またまた陳謝多謝!)のでこれ以上公表しないけれど、ユニークな人々との付き合いがあった。大浜君、須賀君や松本君とはこの時だ。軍事、心霊、べ平連、山歩き、は予備校中でもやめることはなかった。大学は大慈悲をいただいて佛教大学(今度は感謝多謝)で学ばせていただくことになる。
大学時代1973〜1977
大学においても中学、高校、浪人と同様(懲りない性格)、主な関心は学外活動になる。大学生活では同志社大学の片山先生と共に行動したことが大きく印象に残る。
片山先生とは高校3年の時に初めて出会っている。ベ平連京都の定例デモで、いつもデモの後ろの方を大きいショルダーバッグを肩にかけ、市役所から丸山公園まで黙々と歩いておられる中年の人がおり、何か存在感を感じていた。
聞くとその人が同志社大学の片山先生で、フランス哲学の教授をされていることはもう少し後で知った。予備校生のとき、たまたま帰りが先生と一緒になり、当時の月刊誌であった「思想の科学」の長岡読者会に参加させていただき、思想的視野を広げるキッカケになった。
先生とはデモ以外に、山やスキーにも同行させていただき、ご家族ぐるみのお付き合いをさせていただいた。私にとって青春期に父親代わりの役をしていただいたようなもので大変感謝している。
先生とは大学が違うので直接授業を受けたわけではないので、先生の学問に対する厳しさや、学生に対する厳しさはわからないが、ベ平連定例デモ、思想の科学読者会、山、スキー、先生宅での姿、様々なお話、そして奥さんの麻里さんに多くの影響を受けた。私がグレないでここまで来られたのも先生のおかげだ。
もう一人いろいろお世話になった先生がおられる。英知大学の田村先生で、「思想の科学」の読者会をきっかけに野外活動の分野でお世話になった。
当時、学内での体育会系の息苦しさにウンザリしていた私はもっとグローバルでノビノビしたクラブ活動を求め、田村先生と英知の学生と私とで「地球のどこへでもクラブ」をつくった。
名前は立派だがお金のない学生にどこえでも行けるわけがなく、主に急流下りやケービング(洞穴探検)、心霊現象が発生した所の調査など極力やりたいことをやった。この時も田村先生と奥様に大変お世話になった。
この様な大学生活なので四年はアッと言う間にやってきた。就職の問題を解決するときが目の前に迫っていた。
当時、組織的な政治運動以外に自発的な住民運動と言えば公害反対運動が主流だった。市民原理をかかげたベ平連的な運動は当時でも大変ユニークで、私はこれからの政治運動(市民運動)の主流を予感した。
しかしベ平連で活躍された多くの人達が公務員をめざしたことに少なからず反発を覚えた。そういう人達こそ民間に入って民間の苦労をしてほしかった。
そして会社、家庭、市民としてのありよう、などの新しい座標軸を社会に構築してほしかった。 1977年は就職難の年だったが私は民間以外考えていなかった。特にお金の動きと経済活動を勉強したいと思ったので金融機関を考えていた。
私はベ平連運動をしていた時から安全保障条約や資本主義体制は基本的に認めていたので金融機関に対する抵抗もなかった。
社会人時代1977〜
4回生(76年)の秋に就職活動を開始(遅い!)、地元金融機関の京都信用金庫に内定した。
正々堂々と試験だけで、と言いたいところだがコネ(コネクション)も使った。コネを使う事は躊躇しなかった。これはベトコン(南ベトナム解放戦線の蔑称だが私は敬称の意味をこめて使う)から学んだ。弱い者が勝つには様々な工夫(政治)と、したたかさが必要という事を素直に学んだ。
そのかわりコネを使った人は人一倍ガンバル必要がある(いつでも、どこでも、誰とでも困難な仕事を買って出る、そして文句を言ってはならない)。但し、コネは公務員がやると当然犯罪になる(昔はよくあったらしい)。税金(公金)が動くところでは公平・公正・透明しかない。それがイヤなら民間へ行け。
京都信用金庫(京信)は当時、信用金庫では全国2位の預金量があり、すぐその下に京都中央信金、伏見信金、西陣信金と続き京都は信金王国と言われていた。京信は榊田(さかきだ)理事長というすばらしい人がトップにいて、私は理事長にホレていた。
金融界は業務のコンピューター化を進めており、京信も第一次オンラインが完了し、第二次オンライン計画を進めていた。
京信のコンピューター導入は都銀より早い面があり、様々なノウハウを構築しつつあったがそれだけに現場は大変で、よくセブンイレブン(出社朝7時、退社夜11時)と言われていた。
当時、男子だけで100名以上入社したように思うが仕事のハードさもあり1,2年でバラバラと辞めていった。石の上にも3年と言うように最低3年間はシンボウせねばと、何とかガンバッタ(本当に頑張った)。
3年たつとそれなりのペースが身につき、いつしか主任に昇進していた。また、運も良く、営業成績も上位をキープできた。
内勤(融資)、営業主任(推進)、新店舗開設委員、支店長代理と経験も重ねるうちに、エライもんで、だいたい一目(約2秒ぐらい)でその人のレベル、金のあるなしなどが、ほぼ分かるようになってきた(本当だよ!)。
顔は履歴書とよくいわれるが、顔と雰囲気(オーラ)と言うのはその人の中身を表示していることもあると思う。途中、榊田理事長が亡くなって企業としての魅力が減少したように思う。京信が日を追うごとに活力がなくなっていった様に思うのは私だけだろうか。私はまだ京信のCマークにホレています。ガンバッテほしい。
京信時代。支店長代理として営業第一線に立つ。
この当時の顧客第一主義が、今現在の市民第一主義という考えにつながった。
84年、転任先(西洞院支店)の地域で顔に覚えのある人物がいた。話をして思い出した。大学でアメ車を乗り回していた西別府君だった。
彼は京都で古くから着物の色直しやシミ抜きをしている家業を継いでおり、業界の将来に不安をいだいていた。いろいろと話を重ねていくうちに、不安は基本的には正しいが、やりようによってはまだまだ面白いことが出来る、という事になり86年に新会社(株)京都水昌堂を作った。
西別府君は業界ではめずらしいほどのガンバリヤで朝4時から晩10時まで仕事をしていた(信じられないかも知れませんが事実です)。私も自信満々の時であったので10年を切りとして新会社で仕事をする事にした。
1996.9.27 東京・伊勢丹新宿本店にて。着物の色直し実演中。
Tシャツ姿で京都府警察学校の校旗を補正中。
和装の色直しやシミ抜きの事を染色補正(せんしょくほせい)と言うが、その世界をまったく知らない、では仕事にならないので名人(伝統工芸士である西別府君)から教えてもらう事になるのだが、これがまた私の性に合ったのかすっかり職人にハマってしまった。
気がつくと染色補正技能士の検定試験にも受かり、いっちょ前の職人になっていた。バタバタと楽しく仕事をしている内にあの95年がやってきた。
95年1月17日午前5時46分、阪神淡路大震災。 一瞬のうちに多くの人々が亡くなり、まだ生存者がガレキの下で救援を待っている時、政府は海外からの善意の救援隊受け入れを必要ないと断った。現場の判断と行動力が最も求められているときにそれをバックアップ出来ない行政・政府(個人・人権にベースを置かない政治)を目の当たりにした時、20年前のベ平連時代を思い返していた。
社会人になってから京信時代を第一、新会社を第二の人生とするなら阪神淡路大震災は私にとって第三の人生の始まりだ。今まで、仕事は一生懸命してきたが、タダのサラリーマンでしかなかったのではないか、サラリーマンである前に「市民」ということを忘れてなかったか、久しぶりにいろいろと考えた。
様々な言葉も思い出してきた、「民主主義は一人一人に勇気を要求する制度である。」 「民主主義国家では、その市民のレベルに応じた政治が与えられる。」など、
……普通のサラリーマンが一人で何が出来るか?
常識がない事が幸いする事もある。
95年4月、大震災から3ヶ月後、統一地方選挙があった。
行政,議会を変えるには多くの普通の市民が議員に選ばれる必要性を痛感した私は、告示1週間前に一人で立候補出来るか聞くために枚方市役所に電話した。
選挙の事は何も知らなかった。選挙に出ますと役所に言えばポスターも選挙カーも手配してくれると思っていた。今まで知人が選挙に出ても、なぜドロドロした世界に?と、まったく関心がなかった。
電話は市役所から選挙管理委員会につながり、当時の思いをお話した。大変親切に応対していただき立候補は時間的に間に合わない事が理解できた。
ならば、次の選挙までやれる事からやって行こう。幸い環境問題や政治汚職、オンブズマン、アレルギー、ゴミ問題など資料収集はやっていたので、あまりご存知ない市民に知ってもらって役立てればと考えた。 96年、京都市民オンブズパースン委員会の会員となった。
代表の一人が高橋幸子さんというエッセイストで過去にいろいろお世話になっていた。事務局にはタマゴちゃんという古くからの知人もいた。仕事は相変わらず忙しかったので会費会員としてしか活動出来なかったがオンブズマンの方向性は理解できたし、当時の日本の政治には情報公開がまず一番に必要な事もわかった。
97年7月、市民と直接相互通信するため「枚方ぱらだいす通信」をくずは駅前で始めた(駅立ち)。
97年11月には新聞折込にしてチラシを配布した(HP内 初めての折込チラシ参照)。そして99年1月、ホームページを公開した。自分が市民に報告している内容ぐらいは誰でも知っているだろうと不安だったが、わかり良い、勉強になる、と見知らぬ人から声をかけて下さるようになり、こんな事でも喜んでいただける市民がおられると、少しずつ自信がついてきた。・・・・・・
97年7月29日夕方7:00生まれて初めて、京阪くずは駅前で市民報告した時のことは忘れる事はありません。拡声器のスイッチを入れてからマイクをコツンコツンとハジクばかりで声がなかなか出なかった事。
ようやくマイクに向かって声を出す時、清水の舞台から飛び降りる覚悟をした事。原稿を見ながらでは失礼と思い、報告内容を覚えたはずが1分ほどで、今、何をしゃべっているのかわからなくなり、くずは駅前の松坂屋の正面玄関が波のように迫って来るように見え、思わずフリーズした事。初日は早々に引き上げました。
駅前に立つといっても特別な人間でもなし、皆さんも一緒に始めませんか。新しい世界が広がる事、保証します。
議員生活のスタート
それから1年10ヶ月
99年4月25日の市会議員選挙に当選いたしました。今は新しい会派の仲間とがんばっています。皆さんもぜひ加わって下さい。
「市民派会議」のメンバー 。左から西岡豊議員、池上典子議員、高橋しんすけ。(顔が真っ黒けなのは子連れ狼スタイルの選挙で日焼けしたから)
2000年5月より
「フロンティア枚方」のメンバー。左より池上議員,北井議員、私
2002年4月より
議会会派であった「フロンティア枚方」を解散、無会派に。池上典子議員とは政治団体「ひらかた市民会議」を続行中!
枚方市議会では、会派は3人以上ということになっているため、池上典子議員との2人会派は認められず、従って無会派となりました。
控室には前のメンバーである西岡豊議員、北井一郎議員、池上典子議員、私との4人が無会派として一つの部屋に顔を揃えることとなりました。???(解散したのにみんなと一緒!?)
さてさて、妖怪館になるか?はたまた梁山泊となるか?お楽しみに・・・・。
2002年7月12日
念願の鳥取県片山知事とお会いすることができました。私は2年前の鳥取西部大地震で、官出身でありながら片山知事が見事に対応されて以来、知事の手腕に注目してきました。
今回お会いし、直接お話して、地方からの改革の思いをより一層深めることができました。今後の議員活動に生かしてまいります☆・・・この際ハッキリいいましょう。私は片山派です。・・・(言ってしまった。・・・より正確に言えば、考え、行動が私の考えにもっとも近しい人。)
2003年5月12日
2期目の選挙を無事終えて議会会派・「ひらかた市民会議」のスタートです。 左から、私、池上議員、伏見議員です。
※一見、バラバラですが今回の会派は考え方も行動も完全にシンクロしています。たった3人ですが強固な改革系市民議員会派です。市民の為にガンバリマス。
2006年4月10日
会派名を「改革市民会議」に変更し改革加速します。
2007年4月 選挙後もメンバー変わらず。引き続き会派「改革市民会議」にて継続中。
2010年9月10日 議会会派「改革市民会議」を解散し、「みんなの党市民会議」を結成。
2011年5月 伏見議員は先月の選挙で府会へ送りました。新たに当選された鍜治谷議員が新メンバーとしてみんなの党市民会議の看板に。
2014年11月29日 4年以上お世話になった「みんなの党」解散により、以前の無所属議会会派「改革市民会議」に戻りました。引き続きよろしくお願いいたします。
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