※2001年にある雑誌の「われら幸麗者」のコーナーに掲載された内容です。
   雑誌の名前と2001年のいつに載ったかがわかりません。ご存知の方はご一報下さい。(2004・12・16)

※雑誌名が判明しました。雑誌名は「おせわ倶楽部」2001年1月号 16号(会員向け月刊誌)
  狩野さんよりお知らせいただきました。ありがとうございました。(2006・6・9)

 

僕はアガリ性で、これは一生直らない。
慣れるしかないんです。
人生も同じかな?

高橋音楽事務所 高橋一男(72歳)


※上の写真は掲載された記事と関係ありません
因みに写真は私の議員控え室に来たとき。よくヒラリヨンの鐘の音を聴きたがっていました。

街に流れる自作の曲

 神戸市中央区のポートアイランドに、子どもたちに人気の時計塔があります。1時間ごとに鐘が鳴り、それを合図に下の扉が開いて、民族衣裳を来たお人形たちが各国の歌に会わせて回転。楽しい音楽にかわいい人形というので、その時間になると小さな子供達が親子連れで集まってきます。その音楽を作ったのが、今回登場の高橋一男さんその人。ポートアイランドの他にも、同じく神戸市の六甲アイランドの鐘の音楽など、多重ベルで鳴らすメロディを神戸、大阪、京都などのために多数編曲されています。

「ベルは数がそんなに増やせませんからね、使える音が限られて、どんなメロディーにするか結構大変なんですよ。でも大勢にみなさんに喜んでもらえたら、嬉しいです」

 

ある日突然、音楽の道に

 高橋さんが音楽の道を歩み始めて50数年。そのことに1番驚いているのは、実は高橋さん自身なのです。もともと実家はお寺で、ただ音楽好きの父親は僧侶の仕事の傍ら、ひょんなことから松竹映画の音楽を作曲することになり、彼が小学校に上がると同時に門跡を離脱。その後は音楽家として仕事をしていましたが、招集されフィリピンで戦死。小さい頃から絵を描くのと飛行機が大好きで、将来は飛行機の設計士になろうと京都市立美術工芸学校で絵を勉強した高橋さんですが・・・

「でも僕は長男でしたからね、父が戦死したので父の友人にこれからの生活を相談に行ったら、みんな音楽やってる人ばかりでしょ。ちょうどバンドにピアニストがいないし、自分たちが教えるから1年でなんとか弾けるようになれって、すぐにピアノのあるヴァイオリンの先生の家に下宿させられました」

 高橋さんの18歳の夏は、朝から晩までピアノの前に座り、5時になるとピアノの先生宅でレッスンしてもらう毎日。そして約束の1年後、京都の南座でデビュー。松竹のミュージカルカーニバルで一曲弾いたそうですが、何をどう弾いたことやら、頭から白い湯気が出てたのだけを覚えているそうです。
 その日から関西ナンバーワンの楽団であり、生前父がピアノとアコーディオンを弾いていたクンパルシーターのピアニストとして活動を開始。後にはバンドマスターとなり、関西では初めてラテンパーカッションを導入し、ラテンバンドとしても活躍しました。

「当時僕らはボンゴやコンガをスティックでたたいてましたから、最前列で聴いてた南米出身の黒人兵が笑うんですね。そして代われって言って手でたたき始めた。一週間、彼にレッスンしてもらいましたよ」

 

ダンスブームとともに

 終戦当時は被害の大きかった東京、大阪、神戸から多くのミュージシャンが京都に終結。高橋さんはすばらしい先輩達の演奏をとにかく聴いて、大いに勉強したといいます。そして日増しに上達するピアニストを得たクンパルシーターは、戦後のダンスブームに乗って次々にオープンするダンスホールで演奏活動を続けました。

「大阪のメトロなんか1000人くらい入るフロアで、向こうで踊ってる人は顏も見えない。三松などのナイトクラブも昼間はダンス教習所になるし、京都なんか料理屋さんが板張りにして教室開いたり、ダンスサークルのない大学はないくらいで、みんなよう踊ってましたな。僕らの仕事も大忙しで、家に帰るのはいつも明け方でしたよ」

 そんな中で結婚。夫23歳、妻19歳。忙しいとはいえ当時の出演料はまだ安く、一家の大黒柱の高橋さん、そして彼を支える奥様の千鶴子さんはやはり大変だったようです。その後、55年にKBC放送の専属になり、ドラマ音楽のバンド演奏や歌の伴奏などで活躍。デビュー曲の「めけめけ」を持ってキャンペーン中の美輪明宏の伴奏者として、大阪、神戸を一緒に回ったのもその頃だそうです。
 そして61年、高橋さんに大きな転機が訪れます。エレクトーンの出現です。当時のエレクトーンは現在のものに比べると、リズムセクションもついていないし機能的にはとてもシンプルなものでしたが、それでも上鍵盤下鍵盤それに足のペダル、おまけに音色が5種類ついているという、まさに夢の楽器でした。

 

「私のタンゴ」が復活

「話し聞いただけで、これずっとやりたいなって思ったんです。そして一目見て、よしやろうって決めて、京都に1台しかないエレクトーンを追いかけて仕事しました。練習なしのぶっつけ本番。ピアノが19万8千円の時に35万円ですからね、とても買えませんわ」

 足を動かそうとすると手が止まる。周りから「こんな楽器、普通の人には無理やで」と言われながら、それでもなんとか半年でマスター。教本も楽譜もないので、全部自分で編曲し、レバーを微妙に調節しては様々な音色を作り出しました。

「レバー操作は企業秘密。僕はストリングスの音が好きで、よう使いましたね。良かったんは、先輩がいないこと。誰もやってないから僕が第一人者で、何でもやれましたよ」

 63年には1年間、東京で仕事をしながらエレクトーンの奏法やアレンジなどを研究。京都に戻ってからは、教室も始めました。NHKでVTRがスタートした時には、深夜番組に1年間連続出演。リサイタルも開けるようになりました。
 とはいえ日本で西洋音楽、しかも軽音楽の演奏活動で生計をたてていくのは、並大抵ではないというのが現実です。志半ばでやめていく人が多い中、高橋さんがずっと音楽活動を続けてこられたのは、ピアノではなくエレクトーンだったからだと言います。

「それが良かったのか悪かったのか、エレクトーンはモデルチェンジを繰り返しながら育ってきました。最近のには、何とバンドネオンまでついているんです。それで私のタンゴ・ラテンも復活。5月にのリーガロイヤルホテルであった中高年の方のダンスパーティで披露したら、好評でしたね」

 

「音楽をやってよかったと思いますか」という問に、首を傾げる高橋さん。鍵盤を叩きながらも、心から絵や飛行機が消えたことがなかったようです。部屋には数百のプラモデルが手づかずで積まれ、飛行機事故が起こると原因究明に夢中といいます。それでも高橋さんや千鶴子さんのお顔やお声からは、音楽人生を生きた誇りと豊かさが感じられました。首をすくめながらくすっと笑うお茶目な高橋さん。「鍵盤楽器は若さを保つ」というのは本当のようです。私もまたピアノを始めようかな?

 

 

 

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