父・高橋一男の自筆自伝(遺稿)

※父は自伝を完成させようとしていました。私が最も興味を持つ時代はまだ手が付けられておりませんでした。残念です。

*A-1(章) No1(ページ数) の表記は原稿のままです。文も原稿のまま、推敲はされていないようです。

 

 

 

〜一男の父・高橋耀岳(虎之助)のこと〜

A-1  No1 

11月の半ばだというのにもう木枯らしが吹き始めている。

京都の東山、九条山の山腹に殿堂のように建つ「東山会館ダンスホール」週末の午後。バンドのピアニストが急病になったというので、一男の父が急遽代役を頼まれ、「山で遊ぶか」とまだ小学6年生の一男を伴ってやって来たのだ。

ホールに入って一男はステージの横のテーブルに緊張して座っていると、タキシードに白のマフラー、トレンチコート、ドレスアップのご婦人達がカップルで続々とご到着、一男は「わあ、フランス映画みたいや」と感心した。父が映画の仕事をしていると母も映画が好きになったのか、子供達三人を連れてよく映画を見にいきました。それも邦画・洋画をとわず、当時はフランス映画が多かったので一男はそのフランス映画の華やかな場面を思い出したのです。ジャズバンドの演奏が始ると、客達は一斉に踊りだしましたが、一男は始めて聞くジャズやタンゴの演奏に時間のたつのも忘れて聞いていました。これが後に役に立つとは夢にも思っていなかったのです。

 

A-B-1  No2

一男の父、高橋耀岳(ヨウガク・芸名 虎之助)は、五条大宮下ルの日蓮宗のお寺、慈雲寺(じうんじ)の息子だったが、生来の音楽好きで新京極の松竹座へよく洋画を見にいっていたようです。当時はまだ無声映画で日本人の弁士と小編成のオケ(オーケストラ)とアメリカ人のピアニストが映画に合わして演奏し弁士が台詞や情景を語っていました。父はそのピアニストの後の客席の一番前に座ってそのピアニストの演奏を一音も聞き落とすまいと覚えて、寺に帰るとピアノにかじりついて演奏を再現していました。

或る日そのアメリカ人が本国へ帰る事になって、松竹座は後任のピアニストを募集しました。父は待ってましたとオーディションに参加しました。何人ものピアニストが演奏したのですが、父の演奏がアメリカ人の演奏とそっくり同じだということで、見事合格しました。そして松竹座に採用され演奏することになりました。

後に映画がトーキーの時代に入ってきた時にこの小編成のオケの人達と父は、トーキー楽団を編成して活躍するようになるのです。

 

A-B-2  No3

松竹京都撮影所で高田浩吉のデビュー作「お江戸出世小唄」の撮影が始りましたが、これも新人の大尊根辰夫さんが監督になり、その当時フランス映画で「パリの屋根の下」が大ヒットしていました、その映画の主題歌を主役の俳優がアコーディオンの伴奏でセーヌ川の川岸を唄いながら歩いているというシーンを思い出して、あれで行こうと父のアコーディオンで「大江戸出世小唄」の主題歌を高田浩吉が隅田川の土手を歌いながら歩くことになって、父も映画音楽でデビューしたのでした。

この時に寅年だった父は虎之助の芸名を使ったようです。これがスタートで、松竹の映画音楽の作曲を手掛けるようになりました。

 

A-C-1  No4

それからしばらくして、住職の祖父が脳梗塞で倒れ、寝たきりになってしまい、住職の仕事も兼業でこなすことになりました。それから何年間、祖父の病状は回復せず、その間ずっと母が祖父の介護をしていました。私も時々奥座敷へ見に行きますが、じっと天井を見つめたままであまり反応はありませんでした。

私が6才の時、祖父が亡くなり父は正式に寺を継がなくてはならなくなり、相当困ったようです。しばらくは住職の仕事をしていましたが、音楽の仕事がだんだん忙しくなって檀家を回る余裕が無くなった父は、住職を辞めて、一家で寺を出る事になりました。急に引っ越して今までより小さな家に替わったので、3人の兄弟はなにがなんだかわからず大変戸惑いました。一男が小学一年生のときでした。

 

 

 

〜撮影所の仕事、映画音楽〜

A-C-2  No5-6

映画音楽の話しになりますが、アメリカやヨーロッパでは映画音楽は大変重要に考えられていて、映画のストーリーを作るのと音楽の制作は平等かそれ以上に扱われます。映画の台本の段階から音楽の作曲が始って、テーマ音楽をどうするとか、主題歌を作曲するのか、その曲を誰が歌うのかとか、撮影に平行して音楽もでき上がっていきます。

最初は小編成のオーケストラでテストして、OKがでると本番は大編成のオーケストラで仕上げます。だからアメリカやヨーロッパの映画音楽は次々と曲がヒットして、映画は忘れられても曲がオリジナル化して永久に残っていく曲が数えきれないほどあります。

日本の場合は映画が最終段階に入ってから作曲家が仕事を始めます。監督と台本を見て曲のタイミングを決めたり、ラッシュと言って撮影したフィルムの一部分を見て時間を計ったりして頭の中にイメージを作って、それから大急ぎで徹夜で作曲をする。何曲か曲ができ上がると、自宅の仕事場にしている応接間に2-3人の写譜屋さんが集まって、でき上がったスコアからオーケストラの各楽器用に写譜をする。その人達が又、陽気でよくしゃべりよく飲む。それでも手はちゃんと動いて楽譜が出来てゆく。徹夜になると母が夜食を作る。それを又賑やかに会話をしながら食事を楽しんでいる。

寝ている私の耳に賑やかな声が聞こえると、ごそごそ置きだしてきて、その人達の間に入って眺めていると、その人達が僕に話しかけて笑わしてくれる。父は楽しそうに眺めている。子供心にすごく楽しい別世界がそこにあった。

後になって自分が曲を作曲したり編曲をする時、徹夜をする事が増えてくると、その時の光景がうかびます。一番に思い出すのは夜食を食べたいなあと思う事でした。

曲ができ上がると録音になります。京都では夜の10時頃、四条大宮の西側の寺の前に、各撮影所のバスが来ます。集合していたオーケストラのメンバーが乗り込むと出発。現在のように各自自家用車で集まるというのは当時はまだありませんでした。スタジオに入るとそこは映画のセット用のスタジオで、昭和の20年、30年あたりのスタジオは本当にお粗末で、壁はフエルトに金網、天井は骨組み丸出し。床は土かベニア、反響板は無し、冬は大きな火鉢に炭がガンガン。夏は冷房はなし。そんな所で録音が始ります。

 

A-C-3  No.7-8

東映の撮影所はすぐ横を山陰線が通っているので汽車が来ると地響きがして録音はストップということもあります。オーケストラの後ろには大きなスクリーンがあって、音楽を入れる部分のフィルムが映写されます。指揮者はスコアとオーケストラと映画を見ておまけにストップウォッチも見ながら曲を合わしてゆきます。2、3回テストをしてOKが出ると本番です。次々の映画のシーン毎の録音が秒単位で進んでゆきます。時にはフィルムが出来ていなくて長時間待つこともあります。そうして朝がきて映画の撮影が始る前に終るのです。

一男は始めの間、初見の楽譜を見ながら指揮者のタクトが見えなくてよく音が飛び出し、よく叱られました。私は大映の仕事が多かったので、勝新太郎の座頭市や市川雷蔵の眠狂四郎シリーズの中で円月殺法のシーンを私のエレクトーンだけで画面を見ながらグリッサンドで入れて演奏する、これが雷蔵さんと一緒に映画を作っているようでものすごく楽しかった事を思い出としてあります。今は眠狂四郎のビデオを買って、時々見て思い出に浸っています。

しかし時々、一男はピアノやアコーディオンを弾いている父を見た事がある。映画会社が京都トーキー楽団(後の京都市交響楽団)や映画スターで慰問団を組んで、伏見にある十六師団の兵舎を訪れて、広場に作られた大きなステージの上で演奏する、その前にはギッシリ並んだ大勢の兵隊さんに演奏したり映画スターの歌を聞かせる、今で言うライブショーです。日々の訓練で娯楽の無い兵隊たちが、本当に嬉しそうにやんやの喝采を送っていた。

一男のもう一つの楽しみは、舞台が終ってから皆でいただく食事でした。民間ではもう食料品が配給になって、食事もお粗末になっていました。そこへ兵隊さんが作ってくれた飛び切りのご馳走が出て、皆大喜びでいただきました。帰りにはお土産に軍隊の真白な靴下一足に米一升が入ったのを何本も抱えて帰って、母を喜ばせました。

 

 

 

〜父・耀岳の出征〜

E1ページの3   No9

昭和19年、年明け早々に父に召集令状(赤紙)が来ました。父はその時びっくりして長い間考え込んでいました。戦争も末期になっていたし、家族の事も心配だったんだと思います。それからは毎日、挨拶廻りや送別会で忙しくしていましたが、入隊の前日NHK京都放送局が父のアコーディオンを放送してくれることになり、僕たち子供の前で珍しく練習をしました。曲は当時、流行して人気のあった「空の神兵」という曲でした。

ところが二日酔いの父は、所々ミスをします。僕たち子供がそれを指摘すると父はびっくりして弾き直す、何回かはそれを繰り返して練習は終りましたが、なぜか父がすごく素直でやさしかったのです。

その後NHKのラジオから父のアコーディオンが聞こえてきました。さすがにもうミスはありませんでした。翌日父はバンザイの声に送られて伏見の十六師団に入隊しました。

 

1ページ4D  No10-11

それから何ヶ月かして、一男が通っていた京都市立美術工芸学校(後の京都市立芸術大学)の生徒が軍事訓練で琵琶湖の西岸の今津にある陸軍の饗庭野(アイバノ)演習場(現自衛隊演習場)を訪れました。訓練2日目父の部隊がやはり訓練に来ていることがわかりびっくりしました。たまたま私の学校の配属将校とその部隊の中隊長が友人だったことから、親子の対面が実現することになりました。

その夜、大広間に全生徒が集まっていると父がアコーディオンを抱えてやって来ました。私は戦争にかり出された父がアコーディオンを持っていることにおどろきました。どうしたんだろうと思いました。そしていよいよ音楽会が始りました。イタリアのカンツォーネ、ドイツの曲、フランスの曲、日本の曲、さすがアメリカのジャズは弾きませんでしたが、生徒も先生も目を丸くして軍服の兵隊が弾く音楽に聞き入っていました。ラストはあの「空の神兵」でした。

終って隊長の心遣いで、小さな部屋で父と2人で飯盒の食事を食べました。アコーディオンは父の弟子で医師の山川さんから借りたそうです。しかし2人きりになると僕はなにを言って良いのか困ってしまいました。黙って食べていると父が家のことをボソボソと聞いてくるのに答えていたと思います。時間はどんどんすぎてゆきます。せつなかったです。別れしなに「母さんや弟、妹のことを頼むわな」と言ってアコーディオンを抱えて戻ってゆく父。これが今生の別れになるとは思いもしませんでした。今でもあの「空の神兵」を時々思い出します。

それから一週間後、弟子の山川さんから急に連絡があり、父が外地へ出発するのでアコーディオンを受け取りに京都駅へ行くから一緒に行こうと母に連絡が入り、母は大急ぎで妹をつれて京都駅で父にあえたのでした。弟達は学校、私は勤労動員で工場に働いていましたのであいにゆけませんでした。

 

2のA  No12

1944年の夏頃から兵隊に取られて人手が足りなくなった軍需工場へ、全校の生徒が勤労動員で働きに行きました。東山の熊野神社の近くにあった、岡田金属という伸銅工場で、銅板と真鍮板を作って海軍に納める仕事で、原料の溶解、旋盤、圧延、研磨、製品検査等と、およそ美術学校の生徒がやるような仕事ではありませんでした。皆、朝から工場が高熱の為、上半身裸でなれない作業を強いられました。工場内を見渡すと少しの本工員の他は全工程が学生で維持されている状態でした。我々が来るまで工場は動いていなかったようです。

社長はばりばりの軍国主義者で、毎朝皆を集めて唾を飛ばしながら演説をするので皆はうんざりしていました。私たちは国の為と一生懸命に働きました。昼の食事はお粗末で、豆粕のパンというより団子。これは中々食べられない程まずいものでした。その上に怪我人が続出して大変でした。僕は幸い最終工程の検査室でしたので軽い仕事なので助かりましたが、ここでこれからも仕事を続けたらそのうち僕も怪我をして大変なことになるなあと思うようになり、45年になって或る決心をしました。

 

 

 

 

〜飛行機整備士めざし甲府へ〜

2のB  No13

父はいないし長男の僕が出ていくのは心配でしたが、思いきって民間航空機乗員養成所に志願しました。元々身体は上部でないし小学校の時から飛行機の本ばかり読んでいて模型を作っていたので本物の飛行機を見たくて整備を志願したのです。僕が行きたかったのは、宇治の大久保にこの学校があって毎日「赤とんぼ」という練習機が飛んでいるのを見てたものですから、そこへ入れると思っていました。

そこでは日曜になれば家に帰れるし、ユニフォームも格好よくて憧れてもいたので楽しみに待っていました。待ちに待った採用通知が来ました。見るとなんと山梨県の甲府市に集合とあり、思っていた事が外れてがっかりしました。

現地に集合してみると、甲府の郊外の富士川の川岸にある立川飛行機の工場の横に立てられた学校でした。ここには全国から生徒が集まっていて、整備の専門学校だったのです。そこで憧れのユニフォームが配られてみてびっくり、よれよれのドンゴロスのような制服でゲッソリ、靴もピカピカのものでなくウラ革みたいなだぶだぶの靴で、帽子も革のひさしの丸帽でなくよれよれの戦闘帽でした。戦争もひどくなっているし、しようがないと思い知らされました。

 

2のC  No14-15

早速、勉強が始りました。教室は空襲があると危険だということで小学校の講堂をかりて何組かに分かれて、飛行機の構造、空気力学、エンジン、整備法、燃料、オイル、潤滑油など、多岐に渡り毎日必死で憶えました。教官は民間航空の技術者ばかりで本当に親切に教えてくれました。食事もおいしいし毎日が充実していました。甲府の飛行場は秘密の試験場なので、見たこともない飛行機がうじゃうじゃ、それを見てまわるのが楽しくて日曜の休みには一日飛行場に居ました。制服を着てうろうろしてると整備員の人たちが、皆親切に説明をしてくれました。僕はこの人達は本当に飛行機が好きなんだなあと感心しました。

飛行場の片隅には長距離無着陸の世界記録を作ったA-20という機体が、ひっそりと周りを樹木で覆われて隠してありました。写真で見て知っていたので本物を見てあまりの美しさにうっとりと見とれていました。その後何度も見に行きましたが、戦後アメリカに渡ったそうで残念です。

格納庫の中には今まで見たこともない新型の爆撃機が何機もあり、もぐりこんで、すごいなーと友人と眺めていると、整備員が僕らを見て近寄ってきました。「君達この機体は初めてか」と聞きました。「はい、初めてです」と言うと、「これはキの74といって、操縦室が気密室になっていて一万メートルの成層圏を飛べるのや。エンジンは新型のスーパーチャージャー付の二重星型なんやけど、気密室の調子が悪いのとエンジンのオイルが漏れるんや。それで中々苦労しとるんや」「これが調子よく飛んでくれたら、サイパンのB-29をやっつけられるんやけどなー」と残念がっていました。良い部品が作れないんやなー、B-29は飛んでるのに、惜しいなー、戦争に間に合うんやろうかと思いました。結局14機ができていたのですが、間に合わず、だめでした。

飛行場の富士川より森の中に、何か光る物体があるので見にゆくと、森の中に双発の大きな飛行機が何機も隠してありました。近寄ってみると、朝日新聞、毎日新聞など各社の機台が見えました。もう飛ぶことが無いのかなあーとさびしくなりました。ふと横の川の中を見ると、川の砂の中にすごい量のドラム缶が隠してありました。それで飛行場に燃料タンクが無いことに初めて気付きました。

 

2のD  No16

私たちの訓練も実技に入り、エンジンの分解組立に入ってきました。これは何人かが組になって協力しながらやるので、1人がミスすると止まってしまうので、お互いの協同作業が大変でした。そんな時でも教官が小さな声で「この部品はアメリカ製の方が優秀なんだよ」とポロッとこぼすことがあり、なるほどと。こういう事は今でもよく憶えています。

○○頃(*原文ママ)から東京に空襲が始るようになり、私たちは飛行場から町中のお寺に分宿することになりました。そのお寺は日蓮宗の高橋さんという住職のお寺で、私が日蓮宗の寺の息子と知って大変歓迎してくださいました。夜になって、空襲警報のサイレンが鳴るようになってくると、毛布を持って近くの桑畑にもぐりこんで、毛布をかぶって上を見てるのです。そうするうちに富士山の上を南から飛んできたB-29が、私たちの上で向きを変えて東へ飛んでゆきます。しばらくすると八王子・東京方面からどんどんと音が聞こえてパッパッと明るくなります。又しばらくすると同じコースをB-29が帰ってくるのです。全部帰って静かになると寺に帰って寝ます。だから、いつも寝不足になってました。しかし桑畑で食べる桑の実はおいしかったです。

 

2のE  No17

ある日飛行場の方を見ると、戦闘機が一機、高空へ上がって行くと急降下して地上すれすれで又上がっていくことを何回も繰り返していました。なにしてるんだろうと見ていたら、教官が「特攻機といって爆弾を抱えて敵の軍艦に体当たりするんや」「生きて帰れんのや」と言われました。燃料も片路分だけ、もう退役したような中古機で重い爆弾を抱えて敵の戦闘機が一杯いる所へ、また、敵艦からの砲撃の雨の中をたどりつけるんやろか。新鋭機は本土決戦の為に残すのやろなと。パイロットがすごく気の毒に思いました。

それから何日かして飛行場で特攻機の出発を見送りました。飛行服に真白いマフラーをつけたパイロットが別れの盃を上げて隊員のバンザイの声に送られて飛び立って行きました。僕たちはなにか恐ろしいものを見ているようで言葉も出ませんでした。その日一日飛行場にエンジンの音はとうとう聞こえませんでした。

 

 

 

〜空襲〜

2のF-1  No18

6月のある日、昼間からB-29一機が低空で飛んできて甲府の上空をぐるぐるまわっていた。頭の上を通るとき機体のジュラルミンがピカピカ光って、翼の米機のマークがハッキリ見えて、なんと美しいんだろうと敵機だということも忘れて見とれていました。僕たちはあれは写真を撮りに来たんや、そうだとしたら甲府も爆撃されるのが近いのとちがうかと囁きあいました。

7月6日午後11時23分、盆地特有の蒸し暑い夜、突然空襲警報のサイレンが鳴り、私たちはあわてて毛布を持って桑畑へ走りました。そして大変な長い夜が始ったのです。空を見上げていると、B-29が一機、低空で飛んできて、甲府の町の一番左の方(地図では西の端)に照明弾を投下し、明るくなった所へ焼夷弾を落しました。私たちの居る所は甲府から約10キロぐらい離れた市川大門という町で、少し高台になっているのでよく甲府の町が見渡せていました。

初めて焼夷弾が落下するのを見たのですがすごいです。先ず始めに大きな光が一つ、ピューと大きな音を立てながら落下してきて、途中で花火のようにはじけて何十発の焼夷弾が→

 

2のF-2  No19

  →火を吹きながらザァーとものすごい音を立てながら空に広がって落ちてきました。それが町に落ちてしばらくすると、町の方から人の叫ぶ声や掛け声が、かすかに聞こえてきました。わあー、皆で消してるんや、すごいなあーと見ていると、2機目のB-29がやってきて、又焼夷弾を落しました。今度もわっしょい、わっしょい、ここだ、ここだ、とバケツの当たる音や色々な声が聞こえて、火は消されたようです。すると又々、3機目のB-29が、同じ所に焼夷弾を落しました。今度は僕たちは立ち上がって頑張れ、頑張れと必死になって叫んでしまいました。しかし、残念なことに今度は2、3ヶ所からパッと火の手が上がり、それが見る見る大きくなってきました。消した人達は逃げ出したのか、もう声は聞こえませんでした。4機目のB-29は、其の燃えている炎の少し右側に焼夷弾を落す、又燃え出す、というように順番に風下から時間を決めて右へ右へと落していくのです。燃え上がる炎に反射してB-29が真赤に見えて悪魔のように見えました。

 

2のF-3  No20

延々と続く空爆を呆然と見ている私たちの真上で、何機目かのB-29が焼夷弾を落しました。ウワーどうしようと見ているうちにザーッとものすごい音がして目の前の農家に落ちてきました。そして家のまわりの畑に落ちた焼夷弾は火を吹きながら地面に当たってはずんで何遍も飛び上がるのです。それはさながらバレエの火の踊りか白鳥の湖でも見ているような思いでした。

目の前の農家も一瞬の内に燃え出しました。その熱で私たちは逃げ出しました。一つ町が全部燃えるということは今まで経験したことのないようなことが起こります。天を焦がす炎と煙で燃えている甲府の町に向けて、ものすごい風が吹くのです。それは火事で空気が不足するのだろうと思いました。本当に台風のように猛烈な風が何時間も吹きました。おまけに夜が明けているはずなのに明るくならないのです。大火事の煙と煤が空を覆っていて暗いのです。そのうちに雨が降り出しました。その雨が黒いのです。私のシャツに真黒の雨がかかって点々と黒くなってあわてて屋根の下に逃げ込みました。

 

2のF-4   No21

昼頃になると甲府の町から衣服はボロボロ、顏や手足は煤で真黒になった人達がぞろぞろと大勢と歩いてきました。この人達はあの大火災の中でどうしていたんだろう、よく助かったなあと思いながら、どこへ行くんだろう、この人達にどんな罪があるんだろうと思いました。

学校で昨日の空襲はB-29が120機だったと聞きましたが、僕はそんなたくさんこなくても、半分でも1/3でも甲府は無くなったのにと考えていました。物量のある国が相手ではどうしようもないなと思いました。無抵抗な市民や建物を絨毯爆撃で破壊さして私たちの飛行場、工場、格納庫やその中の爆撃機、森に隠してある飛行機などは爆撃されていない。現実には飛べる機体はない、おまけに迎撃できる戦闘機は無い、高射砲も無い、この飛行場には兵隊がいない。こんな所はほっとけと思っているのかなあ。戦争というのは昔から軍隊と軍隊の戦いだと思っていたのにアメリカは何を考えているんだろう。人種差別もあると聞きました。白人は恐ろしい人間かもわからない。

 

 

〜帰郷、京都へ〜

2のF-5  No22

甲府の町が全滅して何日かすると急に食事が悪くなってきました。甲府の食料倉庫が焼けたのと新潟から米が入ってこなくなったのです。今で言うコシヒカリですわな。ご飯にトーモロコシが混ざってきたり、おかずが悪くなっていやな予感がしてきましたね。8月に入って私の体調が段々悪くなり、下痢が続くようになったりと相当弱っていました。その様子を見ていた親切な教官がいて、このままではここに医者もいないので自宅療養した方が良いと、17日の汽車の乗車券を手配してくださいました。お寺の高橋さんも大変心配してくださり色々と薬をいただきました。

もう一つ僕には別の苦しみがありました。それは蚤と虱なんですよ。気候が段々温かくなってくると発生したのです。それが見る見る殖えてきて下着にしらみ、毛布にのみがわんさか、しらみは下着の縫い取りや皺に卵を生むのです。それで毎日のように洗濯して熱湯で煮沸するのです。それで引き上げて見ると、縫い目や皺に数珠つなぎに白いゆで卵みたいに並んでいました。その作業を生徒全員が何度繰り返してもしらみは無くならないので、皆本当にくたびれました。

 

2のF-6   No23

のみの方も毛布が大きくて煮沸できなくて困りました。毛布をパッとめくると何十匹もののみがパーッと飛ぶんです。本当にぞっとします。夜、その毛布で寝るのが怖くてノイローゼになりました。このつらさは、後に米軍が進駐してきて私たちに噴霧器でD.D.T.という殺虫剤を襟元から身体にシューシューと噴霧することで見事にのみやしらみがいなくなりました。米軍はD.D.T.まで戦争にもってくるんだと驚きました。

8月15日の11時30分頃、全員校庭に集合と号令があり集まると、小さなラヂオが置かれていて12時から天皇陛下のお話があるから聞くようにと言われました。12時になって天皇陛下の声が聞こえてきました。だいぶピッチの高い上ずった声で、しかも言葉がむつかしくて何を言われているのか分からない、放送が終っても司会者の終りますの言葉だけで何の説明もない。教官がどうも戦争が終ったらしいと言われ、これからどうなるんだろう、僕らの養成所も終りなのかなあと皆とひそひそ囁いていました。其の夜は空襲もなく、電気もつけて明るい夜が静かに暮れてゆきました。

 

2のF-7   No24

翌日は養成所も解散することになり、一日、残務整理に追われ、毛布や制服などみんな持って帰ることになったのですが、私は重たくって持って帰れないので住職の高橋さんに引き取ってもらいました。夜になって送別会が開かれて講堂の真ん中に大きなワインの樽が置かれていてびっくりしました。なぜなら私たちは皆、未成年なんですよ。教官連中がやけくそになったのとちがうかと思いました。そんなことおかまいなしで皆もやけくそで茶碗でぐいぐい飲みだしました。生まれて初めてお酒を飲んでえらいことになりました。あちらこちらで酔っぱらって大騒ぎ、中にはゲーゲーいってるのもいて大変でした。僕は明日、帰るので少しだけ飲んで騒ぎに巻き込まれないようにしてました。お寺に帰っても皆は酔い潰れて翌日も二日酔いでうなっている時、高橋さんにこっそり挨拶をして一人で駅へ向かいました。

 

2-F-8  No25

甲府へ向かう道を歩いていくと7月の空襲で炎上した家の跡を見ました。その焼け方の見事な事、こんなの見て感心してはいかんのですが、土台の石だけ。空襲前には走っていた電車が止まっていて、約10キロの道をてくてく歩いて行きました。甲府の町へ入っていくと本当に何も無い。焼け残った電柱が少しと瓦礫だけ。ガラスの瓶が溶けて流れて飴のようになっている。とにかくそんな焼け跡を大勢の人がどこへゆくのか歩いている。乗用車もトラックも自転車もみんな焼けてしまったのだろう。僕は駅は無事に残っているのか、汽車は走っているのかなーと心細くなってきた。キップがとれているのだから駅はあるということだけど。歩き疲れてきたけれどなんとかたどり着かねばと、又歩き続けた。

駅は焼けずに残っていた。汽車は時間表通りには来ないらしい。大勢の乗客と並んで待つ。どのくらい待ったか、やっと汽車がやって来た。どこへ行くのかわからないが、とにかく皆と一緒に乗り込む。立っていたか座っていたか記憶にない。名古屋で東海道線に乗ると、半分帰ったような気がした。とにかく食べる物がなにもない。売ってないし、買いに行くこともできない。とうとう京都に着いた。

2-F-9  No26

わーっ、京都は空襲されてへんわ、市電や市バスが走ってる。これで家も大丈夫やなと思いました。なつかしの家に帰りました。ただいま、と家に入ると皆がよう帰ったと出迎えてくれました。皆の笑顔を見た途端、空腹と疲労の為に身体の力が抜けて、その場に倒れてしまいました。

それから一週間は病人のように寝続けました。一週間過ぎてやっと起きだして、さあこれからどうしようと考えました。父はいつ帰るかわからないし、飛行機もパーだし、図案や絵の方はまだまだ何年も修業がいるし、学校に帰ることは父がいないしできない。なんとか働かなくては大変だし。とりあえず父のお弟子さんである林さんに相談することにして、下鴨の自宅まで出かけて行きました。

 

 

〜ピアニスト修業の始まり〜

3-A-1  No27

林 二郎先生は親切に話しを聞いて下さいました。
「絵のことは私等にはわからんしな」
「やっぱり音楽の方が早いかな」
「音楽やったら、僕らが面倒見ていけるしなー。そうするか」
ということで、ピアノの練習を始めることになりました。

ピアノの先生は林先生の先生である丸太町のNHKの近くにお住まいの中村良治先生に毎日5時から一時間、週7日通いました。毎日朝から5時までバイエルから始めました。目標は一年間でなんとか演奏できるようにする。毎日、先生について特訓すれば何とかなるかと。林先生は僕に頑張れとか早くせいとか、厳しいことは一切言われないので自分で予定を立ててやりました。外の用事をする以外はピアノの椅子から離れないと決めました。ぼんやり考え事をするのも、疲れてうたた寝するのもピアノの椅子の上です。夕ご飯の後は広い奥座敷でぽつんと一人、楽譜の写譜の勉強をしました。オーケストラの楽譜を、大きな五線紙に楽譜用の先が三つに分かれたペンとインクと定規とカミソリの刃、これはミスをしたとき削る為、今のようにインク消しがありませんでした。あるのは消した後、黄色くなって余り使えませんでした。

3-A-2  No28-29

ここで話しが脱線するのですが、林先生の話しによると、二年ほど前に日本の各地で米軍の空襲が始った時に、軍部と京都市は建物が密集している市内は、火災が発生すれば大火災になるというので災害を最小におさえる為に、五条通り・お池通り・堀川通り・その他などを、40mから50mに広げるのです。この通りは、京都市内を縦断する長い通りです。そこで建物疎開が始って、道路に面して建っている何百件の家の住民に3日間で立ち退くようにと命令が出たんですね。それからは大変なことになって、三日の間に家財道具をトラックに積んで親戚縁者を頼って泣く泣く立ち退いて行かれたのです。その後、京都じゅうの中学校・大学校の生徒全員に動員が命令されて、その家々を倒しに行きました。木造の家が多いので、家の柱の根元を鋸で切って、家の一番上の柱にロープを巻き付けて100人位で引っ張ると、大音響で倒れるのです。ものすごい土ぼこりで息ができなかったです。私は面白いやら情けないやら、すごく複雑でした。

ピアノの練習が始って、先生はなぜここに住んでいるか話して下さいました。堀川丸太町上ルの堀川通りに林先生の家があって、眼鏡屋さんを開業しておられたのです。私たちが倒した家の中に林先生の家があったんです。あまりの偶然にもうびっくりして、自分がすごく悪いことをしたと思いました。今ではそのあとは立派な幹線道路になって、皆が利用している。立ち退いた人達はそれを見てどう思っているんだろうと思いました。私でさえその道路を通るとその時のことを時々思い出します。

 

 

 

〜出版社での仕事〜

3のB-1  No30

10月になったある日、林先生の義兄の中市さんが、和歌山で甲文社という出版社を経営されていて、京都に出てこられることになり、ピアノの隣の部屋に事務所ができました。従業員は社長と桐野さん、仲元さんと女性の4人でした。僕も時々、アルバイトといっても無料奉仕ですが、手伝いました。これが簡単な仕事で、書籍を書店毎に包装してあるのを、乳母車に積んで郵便局へ行って発送の手続をする、そして返品の山を持って帰ってくる。本の種類はリルケの詩集などと、湯川秀樹先生の物理学の本で、これが返品が多かった。皆がなんでこんなに売れないんやろうと言うと、社長はそのうち売れるでと呑気でした。

私の楽しみの一つは、作家や先生の所へ原稿をもらいに行くことでした。吉井勇さんや新村出さんは、お家へうかがいます。すぐにくださる時や、上がって座敷へ通されてお茶とお菓子をいただいて待つのです。湯川先生は、京都大学の教授室へ行くのですが、大きな部屋の真ん中に大きなテーブルがあって、そこで教授が書類に目を通しておられます。いつも待たされるので僕はキョロキョロあたりを見回して書籍の多さに驚きました。

3のB-2  No31

甲文社の本なんかどこにあるのかわかりませんでした。後に湯川先生は社長の言葉通りノーベル賞をとられて、甲文社は大騒ぎになり、大増刷しても追いつきませんでした。

社員の仲元さんは、本当は邦楽のお囃子の家元の二世でして、本職の仕事がなくて今は事務員です。気のよい人で、いつも謡曲を唄っていました。彼は後に東映の時代劇映画には邦楽監修として必ずタイトルに名前が出るようになりました。

社員の外出用に社長が自転車を買ってくれました。その当時は自転車は高価で、我々には手が出ませんでした。その自転車に乗るには、区役所に行き税金を払って鑑札をもらって自転車に取り付けなければなりません。私は一人で区役所に行き、役所の前に自転車を置いて二階で手続をして、役所の人と一緒に降りてくると自転車がありません。私はびっくりしたのですが、その職員は「あーやっぱり取られましたな、皆は担いで上がってくるんだよ。気の毒でしたなあ」と言って戻ってしまいました。私は泣きながら帰って来て謝りました。翌日、母も来て謝ってくれました。社長は一言「しようがないな、いいよ」と許してくれました。それからは、今でも放置してある自転車を見ると危ないなあと気になります。

 

 

〜初舞台〜

3-C   No.32

基礎をしっかりするために、バイエル、チェルニー、ソナチネと進み、半年が過ぎた頃からは、バンドのレパートリー曲が加わる。クラシックの練習曲と違って、ジャズやタンゴはリズムやコード奏やフィーリングが大事と、時々、夜に林先生に付いて行き、生のバンドの演奏を聞いて、見て、覚えることになりました。

ダンスホールの華やかなムードの中で、タンゴバンドの時にはピアニストの寺田さんの横に、ジャズの時にはジャズピアニストの後ろに座って、夜の更けるのも忘れて聞き入っていました。その時、ジャズピアニストに、プロはなかなか教えてくれんよ、自分で盗むのやな、と言われました。大変やな、全部自分でやらんならんのか、厳しいなと思いました。実際にジャズの人達からは、楽譜一枚貰えませんでした。私はこんな時、父がいてくれたらなあと悔しかったです。その点、タンゴの連中は気楽に楽譜をくれました。私が一番助かったのは、PXといって米軍の売店で売っている最新のヒット曲集の「ヒット・キット」でした。これが毎月新刊がでますので、内緒で買ってもらうのです。兵隊用のコーラスの曲集とか、色々集めました。

2004.8.31までの入力。

3-D-1  No.33

ポピュラーの勉強にもう一つ。ピアノの手を休めるときには、ラジオを聴いた。20年8月30日占領軍総司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立ち、日本全土に進駐軍が駐留。GHQは交戦国すなわちアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・中国その他の国々の曲の演奏を禁止されて聴けなかった日本人の心を解きほぐそうと、9月22日以降、NHKから連日ポピュラーミュージックを放送したのだ。
レス・ブラウンの「センチメンタル・ジャーニー」、グレンミラーの「ムーンライト・セレナーデ」「イン・ザ・ムード」などが全国津々浦々に流れた。23日からは占領軍向け基地放送もスタート。周辺地域では当時アメリカで流行っている音楽が一日中電波に乗った。
一男が欠かさず聴いたのは、毎週水曜日と金曜日の午後に放送された「ラテン・ミュージック・アワー」、番組冒頭の「ソーイン・ティキータ・コン・ムシカ・パラウセ・イータンブエノスデイ・サリドス・アミーゴ」というDJのフレーズを意味などさっぱりわからないまま、すらすら暗誦したものだ。

3-E  No.34

虎之助が林たちと組んでいたバンド「ラ・クンパルシータ」は、虎之助以外のメンバー、林、寺田、三村、宮木、岡、近藤、池尻等。7人は京都にいて、終戦のすぐあとに演奏活動を再開していた。ピアノだけが欠員の為、ギターの寺田氏がピアノを弾いていた。寺田氏は時々やって来ては、「カズボン、はよ代わってや」「はよ代わってや」とせかすものだから、元来のんびり屋の一男も「とにかく早く弾けるようにならないかんな」という思いで、ピアノのキーを叩き続けた。

4-A-1~2  No.35~36

初舞台は、ピアノを始めて一年目の秋、焼けなかった京都の南座に「松竹ミュージック・カーニバル」のタイトルで、東京は渡辺弘とスターダスターズ、約30名の大編成で、このようなグループをシンフォニックジャズオーケストラと言って、アメリカで流行していたのです。その時の演奏した曲の中にボブ・ホープの「ボタンとリボン」という曲が大変気に入って、一男の一曲目の編曲に使いました。

次に渡辺晋とシックス・ジョーズ(後の渡辺プロダクションの社長のバンド)と、京都からは中沢寿士とその楽団、そして我らの「ラ・クンパルシータ」。一男はプログラムのラストの曲、タンゴ「碧空」を演奏するのだ。弟の貞夫が父のユニフォームを楽屋まで届けてくれた。胴回りは少し大きかったが、背丈はぴったり。「なんや虎さんが若返ったみたいやないか」とメンバーから喜ばれた。楽屋を出るまでニコニコしていた一男だったが、舞台の袖から客席をのぞいたとたん、凍りついてしまった。大入満員の客。一曲終るとゴォーっとわき起こる歓声。最後の曲だけ弾く一男を残してクンパルシータのメンバーが「先行くで」「カズボン、がんばりや」と舞台に出ていく。歓声、演奏、また歓声。袖までついてきた貞夫が心配そうに言った。「兄ちゃん、次やで」「うん」「大丈夫か?」「うん」「しっかりしいや、お父ちゃんが見てはるで」「うん」

さあ出番だ。前の曲が終って寺田はピアノからギターの席へ、一男はピアノの椅子に座る。ゆっくり息をととのえる暇はない。すぐにタンゴ「碧空」が始った。客席からの熱風にあふられ目の前は真白になり、頭から湯気が出ている。自分が弾いている音も一切聞こえない。指は動いているがちゃんとあっていたのかどうかわからない。楽屋に戻るとみなが「カズボン、よかったで。さすが虎さんの息子や」と言ってくれた。うつむく一男に、一人林先生だけが「初めはみんな、そんなもんやがな」と言って肩をポンと叩いてくれた。一男は上がるというのはこんなもんやな、えらいこっちゃ、もっともっと猛練習せなあかんなあとつくづく思った。そしてこの日から家に帰ることになった。これからは家族と一緒にいられると、すごく嬉しかった。

 

 

〜父の葬儀〜

4-B-1〜2  No.37〜38

翌日、一男は伏見にある元の師団司令部、今は引揚援護局を訪れた。虎之助からは、フィリピン到着後しばらくして書いたものだろうか、「みんな元気にしていますか。私はこちらで時々ピアノを弾いてフィリピン人に喜んでもらっています」という便りが一度あったきり。その後は何の消息も援護局からの通知もなかった。私たちは毎日、新聞に載る引揚者の名簿を一生懸命見ていたのです。

局の係員は「どうも全滅したらしいですなあ。どうしはります?」「帰ってきやへんのやったら、葬式出さなあきまへんね」「それならもう戦死された事にしまひょか?こちらでお骨出します。ただし箱だけどっせ」「わかりました。葬式の用意がありますので、二三日したらいただきに上がります」と一旦家に帰って葬式の準備にとりかかった。

隣の親代わりをお願いしている塩貝さんら近所の人達、林先生や父の友人達に葬式の連絡をしてもらったり、葬儀屋との打合わせ、慈雲寺との連絡、お通夜なしの本葬と、大忙しで用意をしました。後で考えればそんなに急いで葬式をやらなくても、ゆっくりやってもよかったんだなあと思いました。

さて、当日役所で骨箱をもらって藤森から京阪電車に乗って七条千本で電車を降りると、目の前に身内の者、ご近所の人、父の友人等が並んで出迎えてくれていた。そんな皆の顏を見たとたん、今まで気が張っていたのが、いっぺんにゆるんで、どっと涙が出て止まらなくなりました。そして行列の先頭を歩きながらも、父がいなくなってからのうらみ・つらみが次々と出てきて、葬式の間泣き通したのが今でもハッキリ思い出します。父の遺品からネクタイから指揮棒や高田浩吉のプロマイドや五線紙などを骨箱に入れて、思い出の慈雲寺に納骨をしました。

 

未完

2004.10.8 入力終了

 

 

※ さて、父の原稿(手書き、鉛筆書き)はここまででした。文体もいろいろ試しているようで推敲もしていません。個人的にはここからがもっとも興味があるのですが残念ながら知る事は出来なくなりました。今後は皆様それぞれの思い出の中で父は生き続けることと思います。どうか父・一男をよろしくお願いいたします。(2004.10.8)

 

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